2015/01/25

 有識者、という言葉に疑問を覚える。物の本によるとそれは見識の高い人を指し、俗的には博識という言葉とほぼ同義に扱われるケースが多く、それがいかに偏った知識や経験の持ち主であってもそう呼ばれる事が多い。マニア的であったとしても、一つの分野に精通し他人に影響を与えうる人物であれば、人をそれを有識者と呼ぶ。もちろん従来の意味に沿っているかと言われれば、疑問は抱く。

 Twitterにて、「無職には有識者が多い」という呟きを見かけた。並べて「有識者ならば無職にならず、働けばいいのに」と言う人もいた。それに反応して、無職が肯定的な意見を述べて、政治や社会に文句を言っている。僕はそれらの言葉や光景を見て、頭上に靄を浮かべる。物事を深く見通し、本質を捉える人。職が無くとも矛盾は無い。自らの中にある有識者という言葉の不必要なレッテルが何かを邪魔しているだけかもしれないが、果たしてそれは「正しい」のだろうか。

 正しいという言葉も多種多様で、それに付属する名詞によって意味は異なる。本人にとってなのか。資本主義にとってなのか。日本にとってなのか。それとも歴史にとってなのか。膨大とも言える幅広さに曖昧さは疑問しか生まないのだろうけど、この場合は歴史的な、差し引いては人類だとか意味的に広義なものとして捉えていただければ嬉しい。


 簡単な話だ。社会に参加していない人間が、社会や社会のものに中指を立てて道理が成り立つかという事。それがアニメーションだとか漫画だとか娯楽作品であれば自由だけど、政治的な意見は政治に遠からず影響する恐れがある。Twitterなど若者を中心に人気を博しているネットサービスであれば、無知な者も少なくはない。結果的に中高生や政治に感心を持ち始めたがまだ勉強不足の若者が、誰かのただの愚痴を真に受けて、支持されることも難しい捻くれた思想を持ちあわせてしまう危険性があるのだ。
 それは政治に関しての話ではなく在日の話であったり、マスコミの話であったり、無知なのに付け焼き刃で情報を得てしまった大人たちが流す私怨にも似た大きな渦に若い世代を巻き込んでしまう可能性があるのではないか、と心配でならない。
 具体的に言えばその私怨にも似たものを見た若者が「韓国」「在日」「マスコミ」「政治」などと言った単語を見るだけで批判体勢をとってしまうような、そんな未来を容易に想像できてならない。批判は猿でも出来る。必要なのはそれらに対して自らの意見を持ち合わせ、自分はどう行動していくかということなのではないか。ただ批評的なスタンスや、アンチテーゼに満ち溢れた世情になってしまえばこれから先に何も得ることができず、最終的には疑うことも難しい当たり障りの良いぺてんに溢れた砂上の楼閣が乱立する世の中になってしまうのではないかと信じて疑わないのだ。そして楼閣は崩れ落ち、ディストピアな思考ばかりの人間だらけになってしまう。

 恐らく前述の「無職の有識者」とはそういった在日、韓国、マスコミなどといった知識に精通したものたちの事も指すのであろう。だがそれは批判に必要な武器を揃えただけの民間兵にしか過ぎなくて、何かを守るためのものではない。何かを潰すための材料に他ならない。それらだけを持ち合わせたものを一緒くたに「有識者」と述べるのは、些か危険ではないかと僕は考える。本当の有識者とは否定と肯定も出来る中庸そのものであり、多角的視点から物事を捉え、本質を見抜く人間を指すのではないかと僕は考えている。
 つまりは政治を批判するにしても批判する部位を述べ、具体的な解決策を提案する人間。むろんそれはあくまで個人的見解であり、決して他者に押し付けるものではなく、一人の意見にしか過ぎないという当たり前な前置きを述べることが出来る人間こそが有識者であり、クレバーな人間なのではないかと思えてしまうのだ。

 ゆえに「無職の有識者」は何も知らない人間を歪めてしまう恐れがあるのではないか。SNSなどといったインターネットが普及した現代だからこそ、それは懸念せざるを得ない。

 しかしだからといって、無知なのもまた話にならない。人間とは弱く賢い生き方をして食物連鎖を抜け出た狡賢い生き物なのだから、ただ批判したり攻撃をするだけならば野犬となんら変わりないことは言うまでもない。
 「何も知らないほうが幸せだ」と言う人をたまに目にするけど、僕はそう思わない。自分が生きる世界とまでは言わなくても、目が届く範囲や自分に関わるものに関して最低限の知識は持ち合わせないとその無知の人の周りにいる人間が支えなくてはならない状況になってしまうため、リスクに偏りが生じてしまうのだ。



 例えば、皆さんはアントニオ・サラザールをご存知だろうか。かつてポルトガルの首相、一時大統領だった男だ。エスタド・ノヴォ体制(教会と伝統的な身分制中間層が支配するコルポラティズモ体制の確立や無政府主義政党を禁止など)を確立し、彼を歴史的に独裁者と呼ぶ人も多い。
 私生活にも謎が多い人物で、彼を多く知る者は少ない。が、彼の晩年は「知らないほうが幸せ」という考えを持ち合わせたものたちの計らいによって安らかに生涯を遂げたものだったのだ。

 サラザールの確立したエスタド・ノヴォ体制は戦後も続き、彼は独裁的な政治を行い続け、ポルトガル軍の中で不満の声が募っていた。しかし歴史の歯車を食い止めることは難しく、首相の座から降りることも無かった。故にポルトガル内でも諍いは起こり、疑問と混乱は渦を撒いて続いたのであった。

 ある日のことである。その日、サラザールはリスボン郊外のサント・アントニオ・ダ・バッラ城砦で静養中だった。ハンモックに寝っ転がり、昼寝をしていたのである。混乱しているポルトガルの現状で心労も募り、安らかな時間を求めたのだろう。
 しかしハンモックは半回転を描き、サラザールは眠りの中に意識を失ったままハンモックから落下してしまう。運悪く頭を強打し、そのまま意識を失う。サント・アントニオ・ダ・バッラ城砦の地面は固く舗装されていた為、死亡しても不思議ではなかったのだが、サラザールは奇跡的に命を取り留めた。

 しかしサラザールは、2年もの歳月を、夢の中で過ごすことになる。

 彼が目を覚ましたのは2年後のポルトガル。政権は変わり、近代化が進み、動乱の真っ最中で彼が何か行動を起こしたところで政治的な意味を持たないほどの状況に変わっていたのだ。
 しかし彼らの側近は、彼にその事を知らせない。彼になるべく精神的なショックを与えまいと執務室を当時のまま保全し、偽物の新聞を読ませて晩年を過ごさせたのだ。
 まだ彼は自らの政権が続いていると思っているため、何の影響力の無い命令書を書いては過ごし、自らの生涯を終えたのだ。



 サラザールは何も知らなかった。しかし、知っている側近は彼を幸せに生涯を遂げるように一意専心した。これをリスクと呼ぶのも些か幼稚にも思えるが、人間が人間である以上は必ず無知のものを助けなければいけない因果に生まれていると言わざるを得ない。

 サラザールは幸せだっただろうか。政権が変わったことも知らず、偽物の新聞を読まされて自分以外の人間が真実を知っている中で没した彼の生涯は、果たして正解と言えるのだろうか。
 もしサラザールが事実を知っていれば、不幸せになっていたかもしれない。が、それが事実であることは言わずもがなである。僕はそれならば不幸せで良いのではないかと考えてしまう。なぜなら、真実を知らないことには影響力など持たないからだ。

 話を戻すと、本当の有識者であれば真実を受け入れて、正しい影響力を持つべきなのではないかと僕は考える。正しい影響力というものの正解などわかりはしないけど、それでも自分の思考と照らしあわせて正しいと思うことを人に伝える。ただの批判や攻撃ではない。自分たちがこれから生きる時間を真剣に見つめ、生産的な意見を考える力が何より必要ではないかと考えるのだ。

 それを真剣に考える無職もいるではないか、という意見もあるとは思うが、そう思うならまず働かないといけない。資本主義の日本を変えたいのならば、まずその渦の中に入り込んで戦うことが必要だと思っている。何処かで得た情報を自分の口から言うだけなんて、子供でも出来る所業。まずは自ら経験を経てそれから学び、情報と経験と知恵を足してから初めてそれを知識と呼べるのではないか。過去に働いたことがあるとしても、今も戦地で戦うものの説得力に適うわけがない。中年や高齢の無職が何かを吠えたところでも、働いた時代が違うから同様だろう。

 結論。無職に有識者がいたとしても、それは砂上の楼閣に他ならない。まず目の前のやるべきことをやらなければいかなる批判や攻撃に意味を持たないからだ(理由は前述)。何も知らないものに与えるべきは正しい情報に他ならなく、思想の植え付けなど言語道断なのである。ゆえに発信する言葉の使い方や、伝達手段には最低限の注意を払う必要があるのではないかと、僕は考えるのであった。

2015/01/22

 死にたくないから病院に行った。数ヶ月前に入院したから、その後の経過観察ってやつだな。出来るだけ朝の早い時間に受付を済ませてさっさと会社に行こうと思っていたから、病院が開く数十分前には入り口に到着していたんだけど、なぜか既に爺さんと婆さんがドアの前で列を成してるのな。オープン待ち。


 


 もう俺、上のようなポーズで固まったまんま過呼吸起こしそうになったわ。

 朝9時だぞ朝の9時。夜の9時でもおかしいだろこの行列。目の前の老婆2人組が「今朝は冷えるねー」とか言い合ってる。冷えるぞ。1月は冷えるぞ。当たり前だろ。お前は過去に何十回の1月を過ごしてきたんだよ。
 冷える故におかしいんだよこの行列。まさか俺と同じ思惑で並んでるわけじゃねぇだろ? 言っちゃ失礼だが現役を引退されたような年代の方々ばっかりなんだから。会社に早く行かなくちゃいけないから早起きして病院に行く、という理由ではないはずだろ。

 そして病院が開く時間になって、自動ドアが開いた瞬間爺さん婆さんは受付に並ぼうとし始めるわけですわ。腰が90度曲がった老人が俺よりも早く動く様子は、見方を変えれば都市伝説に出来そうなぐらいの恐怖を感じたけど、負けずに受付へと向かう俺。そしてその直後、爺さんと婆さん達の思惑がようやく理解できる光景を目の当たりにした。

 奴らは早く診察を済ませたいんじゃない。早く病院に入りたかっただけだったんだ。見てごらん。受付を早々と終えた老人たちの、待合席に座り、談笑している老婆たちの姿を。これでもかってばかりにリラックスした体勢でテレビを凝視している老爺たちの姿を。
 つまりは病院という清潔感のある建物の中で、持て余した時間を人との交流やテレビなどで潰したかったに他ならなく、つまりはそれが彼ら彼女らの日常だったのだ。若者が朝起きてTwitter画面を開くのと同じ心理であろうことを俺は想像する。

 「なるほど。たまに診察が終わっても帰らない老人がいたけど、そういうことだったのか」

 俺は納得し、病院の受付の前に立つ。

 「あ、白石さん。保険証出して下さい」
 「え?」
 「今月最初の診断ですから、保険証が必要ですよ」





 

2015/01/21

 俺、死にたもうことなかれ。缶コーヒー飲んでて、缶が空になったからそれを灰皿にして使ってたんだけど、それをうっかり飲んでしまったわ。

 サラサラサーッて灰とか吸い殻が落ちてきてさ、もう俺の体の中はパニックよ。「あれ!? コーヒーちゃうんか!?」って舌から小腸までカタストロフィ。だけど俺の体はアホだから、少しばかりの灰を食道に受け入れてしまったわけよ。「お前コーヒーちゃうやん! まぁええわ! 通ってええで!」って。その瞬間吐いたわ。ロッテリアの絶品チーズバーガーがバブルスライムみたいになって出てきた。

 そんでトイレに直行して、ずっとゲボ吐いてた。口の中は酸っぱいし、体の中は相変わらずパニックだしもう大変。食道が「色々考えたけどやっぱお前通っちゃアカンわ!! 出てけアホンダラァ!!」って暴れてるの。アホはお前だ。最初から通すな。
 全身のカロリー蓄積数が負の数に達する勢いで吐き続けて、「あ、俺死ぬかもしれない」と思ったね。当たり前だよね。タバコってそのまま食ったら致死量らしいよ。ウルトラ怪獣の必殺技のごとく口からビームを出し続けていた俺はもう胃の中も空っぽになって気分が悪くなり、倒れこむようにソファに寝っ転がりましたわ。
 そしたら鳴るのな。腹の虫が、グゥって。食道と胃が「さっきはビックリしたな!! 出したらアカンもんも出したから腹ペコやわ!! なんか食わしてや!!」とか言ってるんですわ。殺すぞ。誰のせいでこうなったと思ってやがる。だけどその空腹感は俺自身の生存欲求に直結したものだから、食べなければ、俺が飢えて死んでしまう。俺はカップラーメンにお湯を入れた。このアホな体と、棺桶の中まで生きていく。俺、死にたもうことなかれ。

2015/01/19

 定期券という魔法のカードを持っている俺は会社と自宅を往復し放題という特権を持って生きているから「いつでも電車に飛び込んで死ねる!」という事を胸に日々を生きているんだけど、改札機がビコーンッてな。今朝、改札通ろうとしたら、ビコーンッてな。通れなかったわ。

 すると駅員が来るのよ。「どうしましたー?」って。それで俺は「通れなくって……」と定期券を手渡すも、なぜか駅員も困った顔を浮かべてるの。どうやら新人だったらしくって、定期券を受け取るやいなや僕と全く同じ行動を取ってビコーンッて。それも3回。それで僕も駅員も困った顔を浮かべて改札前で棒立ちですわ。そこで駅員が申し訳なさそうな顔で、

 「困りましたねぇ……フハハ」

 何言ってんだお前? いやフハハじゃねぇんだよ。お前がどうにも出来ない問題なら先輩とか上司とかに連絡して何とかしてくれや、という事を限りなく優しい口調で言うと、駅員は「そうか!」みたいな顔をして事務室みたいな所に走って行く。俺はもう、ぽつんと改札の横で立ち尽くすしかありませんわ。

 そしてすぐにさっきの新人が駆け寄って来ましたわ。二人も別の駅員を連れて。三人の駅員が僕を囲み、さっきの新人が僕を平手で指し「この人が改札で、あの、定期があったんですけど」と拙い説明を始める。他の駅員二人はイライラし始めて「定期券が通らなかったってことね?」と威圧的な言い方で新人に問うけど、なぜか新人は反射的に「いやっ」と返したまま、言葉に詰まってしまう。「いやっ」じゃねぇだろ。その通りだろ。やめろよ周りがすっげぇ俺のこと見てんじゃねぇかよ。今通りすぎた大学生らしき二人組がこっち見て「痴漢とか?」ってつぶやいてたの聞こえちまったじゃねぇかよ。

 たまらず僕が「いえ定期券が改札に通らなかっただけの話です」と口を挟み、駅員さん二人に定期券を渡すと驚きの一言が。

 「あ、これ期限切れてます。昨日までですよ」

 え? と思わず口にして、定期を受け取り裏返す。本当だ。昨日までになってる。今日19日か。18日だと完全に思い込んでたわ。完全に俺がアホだった。「あちらの窓口で更新できますので、本日更新されますか?」と駅員さん二人が優しく言ってきたため、「お願いします」と深々と頭を下げる俺。そして窓口の近くまで駅員三人と、申し訳無さそうな顔を浮かべた俺が歩いて行く。ハタから見れば完全に痴漢かキセルで捕まった人にしか見えないその状況に、俺は笑うしかなかった。もういっそ捕まえてくれ。社会でやっていける気がしねぇんだ。

2015/01/18

 電話ボックスの中でタバコを吸っているオッサンを見て、色々考えた。アイツは一体なにやってんだろうって。確かに今日は冷えるけど、その選択は色々間違ってるんじゃないかって。

 煙で白くなったボックス内はどこか幻想的な雰囲気が立ち込めており、煙の中に佇むオッサンは無精髭を生やしていてどこか疲れきった顔を浮かべていた。靴を見ると紐がもつれていて、裾も破れている。恐らく彼はホームレスで暖を取りながらも喫煙出来る場所を探した結果、電話ボックスという答えにたどり着いたのだろう。オッサンは煙の中へ、静かに消えていく。流石に煙くなってきたのかオッサンがしゃがみ込んだところで、僕は再び歩き始めた。あんなオッサンに構っている暇は無い。僕はゲオにDVDを返しにいかなければいけなかったのだ。



 数十分後、電話ボックスは真っ白になっていた。これもしかして新手の自殺なんじゃねぇかと思い始めたところでオッサンが電話ボックスの中から出てきた。さながらコールドスリープから目覚めたように煙が体を撫でて、空気中に消えていく。モクモクと電話ボックスの中から煙が立ち込めており、他の人から見れば完全に火事としか思えない状況だった。しかしオッサンは猫背で歩こうとするもゴホゴホと咳込み、またしゃがみ込んでしまう。弱々しい顔を電話ボックスに向けるや否や、また電話ボックスに入り体育座りをしたまま膝の中に顔を埋めてしまった。その光景を見て、なんというか、「がんばろう」って気持ちになった。

2015/01/17

 中学校の頃の話だ。今でもハッキリと覚えている。「ブラックジャックは善人か悪人か」という議題で善人派と悪人派に分かれ、討論を行うという内容の授業だった。道徳観と意見を主張するということを養うための授業だと今なら想像できるけど、当時衝撃を隠せなかったのは、悪人派が僕しかいなかったということだ。イコールという記号の如く机は向かう合う形で並べられ、廊下側に座る善人派には見慣れた顔ぶれが見える。窓際に座った僕に味方などいなかった。まさに四面楚歌。圧倒的なプレッシャーだった。

 「ブラックジャックは人を助けています」

 そう開口したのはクラスの優等生だった。女子らしさを生活や身なりで訴えかけるような女子で僕は彼女のことが嫌いだった。すぐ反論するために挙手をする。黒板の前に立つ先生が僕を指さし、立ち上がる。

 「助けるうえでブラックジャックは法外なお金を要求します」

 予め用意していた答えだった。法外という部分を強調すると、優等生の女子は少し顔を赤くして鼻の穴を広げて挙手をした。

 「それでも人の命を助けているんだから良いと思います」
 「いやいや、法外なお金を要求されて生き地獄を味わった患者もいるかもしれません」
 「じゃあ白石くんは人の命を助けるのが悪いことだって言いたいんですか?」
 「違います」

 優等生の女子の背中を押すように、他の女子たちの野次が飛んでくる。「アンタだって死にたくないでしょうに」「お金で命は代えられないじゃん」などと暴力団の恐喝にも聞こえるような言葉が飛び交う中、先生がぱんぱんと手を叩き、その音が教室に響き渡る。生徒全員が先生の方に顔を向けた。

 「はいはい、冷静に話しあいましょう。それじゃあ白石くんは命よりもお金が大事ということですか?」

 何言ってんだこのババア、と喉のあたりまで出かけ、「違います」とかぶとを振る。「死ぬということを受け入れるのも大切だと思うんです」
 本心だった。僕がブラックジャックを読んでいて違和感を感じたことはそれだったのだ。確かにストーリーの完成度、描写などにおいて最高峰であるということは認めざるをえない。しかし法外な金額を請求するということは、貧乏で病弱な子供との格差をより生んでしまうだけではないかと考えたのだ。
 「じゃあアンタが死ねよ!!」と絹を裂くような女子の声が響くが、僕は下腹部と足の指に力を入れて冷静さを保つ。なにもこれは勝つための議論ではない。ただの授業だと自分に言い聞かせた。直後、挙手をしたのは優等生の女子だった。

 「それって助かる可能性がある人も死んだほうがいいということですか」
 「違います」
 「じゃあどういうことですか。説明して下さい」

 感情的になりながら、優等生の女子はさらに言及してくる。もうおよそ野次ともいえない言葉の暴力が僕の胸を突き刺す中で、なるべく早口にならないように、深く息を吸い込んで発言をする。

 「ブラックジャックがしていることは貧富の差を広げるだけだと思います」
 「ヒンプの差?」

 オウム返しをする優等生の女子はどこか不快げな顔を浮かべていた。

 「金が本当に無い人間が『助かりたい』と思ったときにブラックジャックは助けてくれません」
 「だからなんですか」
 「作中に出てくるのは金が払える人か、手段を選ばないで払う人ばかりです。そうしないと話が成立しないでしょうし。だからブラックジャックが現実にいた場合、払える人間は助かり、どうしても払えない崖っぷちな人は助からないという差が広がってしまうと思うので、それは差別なんじゃないかと思います」

 後半になるにつれて少しずつ早口になってしまったことを反省しながら、伝わっただろうかと不安になる。優等生の女子はばつの悪そうな顔を浮かべて、天井を刺すような勢いで挙手をする。

 「それでもブラックジャックは得たお金を自然保護に使っています」伝わっていなかったようだ。
 「自然保護に使っていても医者として間違っています」

 ここで、はっとした。そうだ。この議論のテーマが「善人か悪人か」というのは、どっちにおいてのことなのだろうと思った。医者として善人なのか、人間として善人なのか。最初に確認すればよかった、と思うと同時に唇が乾燥する。喉が乾き、胸のあたりで不安がざわざわとうめき始めた。

 「彼は人間としては間違っていません。人の命を救ってるし自然を守っているからです」

 ほら、来た。話の軸を定めないと水掛け論になってしまうではないかと僕は絶望した。さすが優等生というべきか、自分の意見が支持される方法をよく知っている。しかし、僕は挙手する。

 「ブラックジャックというストーリーは医者であり人間でもある彼の話です。そして人間的にも間違っていると思います」
 「なんでですか。理由を言ってください。あと、屁理屈はやめてください」優等生の女子はかつて見たことが無いほど早口になっていた。
 「法を破っている以上は悪人だからです」
 「無免許のことですか」食い気味に優等生の女子は問い詰めてきて、僕は首肯する。
 「はい。法を破っている以上は悪人です」
 
 ここでスイッチが入ったように周りの女子たちに熱が帯びる。「漫画に出てきた医学会と同じこと言ってんじゃん!」「白石が悪人だろ!」「法律法律って頭の中が堅いんじゃないの!?」。確かに作中でブラックジャックが無免許であるがゆえに逮捕されるシーンがあった。が、あのときブラックジャックは抵抗もしなければ弁明もしない。その理由を考えると、彼は自分で正解ではないことをしていたことを自覚していたからだと当時の僕は思っていた。だからといって間違いを犯していたとも言い切れない。正しくもなく間違ってもいない、そういう覚束ない線の上で彼は生きているのだろうと思った。

 「いや、確かに」釣られて僕は声を荒げる。「確かに法律が全部正しいわけでないとは思いますが」
 そう口にした途端、女子たちがしんと静まり返った。先生が僕の顔を見て、「白石くん続けてください」と促す。

 「……確かに法律が全部正しいわけではないとは思いますけど、今回の話を話しあう上では必要なことだと思います」
 「どういうことですか」語尾を伸ばし、挑発しているような声を委員長の横に座る女子が口にする。
 「感情で話しあったってこの話し合いは終わりませんし、それにこういう良し悪しをハッキリと判断するために法律があるんですし、それに」急に静まり返った教室の雰囲気に気圧されそうになる。静寂が頭上から落ちてきて、僕を圧迫するようだった。教室内すべての視線が僕に向いていると思うと、急に怖くなってきて、声が震える。

 「それに?」女子の誰かの声が突き刺すように僕の耳に届く。
 「それに……」

 言葉に詰まってしまった。何を言おうとしたか忘れてしまったのだ。俯き、泣きそうになってしまう。そこで先生の手を叩く音が静寂を裂き、「はい、じゃあそろそろ結論を出しましょうか」と軽快に言い放つ。嘘だろ。ここから結論を出すの?

 「先生」優等生の女子が挙手する。そして、こう続けた。







 「このままじゃ埒があかないので、多数決を取りましょう」
 「そうですね。いいですね多数決」



 え?




 は? ちょっと待って。ここに来て多数決? じゃあここまでの議論は何だったの? 僕は戸惑い、潤った目頭が一気に乾くのを感じた。辺りを見渡すと、もう解決でもしたかのような空気になっており、さっきの殺伐さはどこに言ってしまったのかと思ってしまう。

 「はい! じゃあブラックジャックが善人だと思う人!」

 先生がそう言うと、女子がさながら軍隊のように調子を揃えて挙手をする。全く議論に参加していなかった男子も僕に申し訳なさげな顔を向けながら、調子を合わせるようにゆっくりと挙手した。

 「はい! 多数決で決定しました! ブラックジャックは善人です!」

 嘘ォ。こんな形で終わるの? 僕はぽかんとして席を立つ向かい側の善人派の人間たちを見つめていた。口々に女子が「やっぱり善人だよねー」「白石って理屈っぽいね」などと笑顔を浮かべている。感情的になる余裕さえもなかった。そのまま生徒たちは机を元の位置に戻し、給食の準備を進める。

 「先生」と僕は先生に歩み寄った。「え、結局僕が間違っていたってことですか」
 聞かずにはいられなかった。あれだけ侃々諤々な議論を行ったにも関わらず、数の圧力で僕は説き伏せられてしまったというのか。

 「給食食べよう」

 先生はそう言った。なに言ってんだこのババア。答えになっていない。結局僕は多数決という数の圧力でねじ伏せられて、納得のいかないまま議論を終えてしまったのだ。中島くんの「今日の給食はフルーツポンチがあるんだぜ」という言葉が無ければ、僕はその日ずっと絶望していたことだろう。

 「マジで!? っしゃぁ! フルーツポンチ大盛りで頼むわ!!」

 その笑顔の裏側で、僕は、一人で戦うことの恐ろしさを噛み締めていたのであった。

 

2015/01/14

 雪国で車に乗ると、トラブルが絶えない。具体的に言えば、本来は二車線ある道路に雪が積もって道が狭くなって一車線になってしまったり、タイヤが雪に埋もれて身動きが取れなくなったりする。オーケー、僕は今日ダブルでそれを味わった。一車線になってしまった道路のど真ん中でタイヤが雪に埋もれた。出勤中な。すっげぇ焦ったよ。今このタイミングで車が来たらどうしようって。完全に僕はその道を通せんぼしているんだもの。

 そしてマーフィーの法則っていうの? 嫌な予感は当たるもんだね。来たわ。軽自動車。前方からこっちに向かってきて、動物の死骸でも見つけたかのような、嫌な顔をした女が運転席に座ってるのが見えるわ。赤いダイハツ・ムーブがじりじりと僕に歩み寄ってきてるよ。

 プップーってクラクションを鳴らされましたわ。うん、プップーじゃないんだよね。僕だって会社に向かう途中で時間がなかったし、猫の手も借りたい思いだったんだよ。だけどどうやら向こうも急いでいる様子だったから、僕は大きめな声で「すみません、タイヤが雪に埋もれてしまってるので別の道を行っていただけますか」と頭を下げたよ。
 すると運転席から女が降りてきてさ、「なに勝手なこと言ってんの!? 私だってこれから仕事があるんだけど!?」って言ったの。もうね、耳を疑ったよね。え、何? 僕、勝手な真似をしてしまったの? この女性から見れば僕は今、「わぁ! 雪がたくさん積もってるー! タイヤ埋めちゃお!」とでもふざけたように見えたの?

 「いえ、申し訳ないんですけど別の道を行ってくれませんか」

 できる限り僕は丁寧な口調で言いましたよ。すると女は「アンタの運転が下手だから埋もれたんでしょ!? 知らねぇよ!!」って言ってきたの。あのな、お前がどこの教習所で免許を取ったかしらねぇけど車ってのはマリオカートじゃねぇんだからジャンプで避けることって出来ないんだわ。攻撃力がどんどん上がっていくけれどもここは穏便に、下手に出ましたよ。

 「運転技術の問題ではなく、雪国ではよくあることではないですか」
 「私、もともと東京の人間だからそんなこと知らないから!!」
 「あぁ、じゃあ雪国の運転ってこういうことが稀にありますので」
 「なに知ったふうな口聞いてんの!?」

 知ったふうな口っていうか、いま僕はそれを体験してるからね?


 幸い時間に余裕を見て家を出たため、あと20分は余裕がある。だから20分以内に僕はこの状況を脱出して、駅に向かえば何事も無く一日を迎えることが出来るのだ。しかし、今抱えているトラブルは雪に埋もれたタイヤと、目の前の荒ぶった女性。相手も急いでいるのならば感情的になる気持ちはわかるけど、これは理解していただきたい。

 「来た道を戻れば大きな通りに出ますから、そちらから行ってもらえませんか。申し訳ないんですが」
 「アンタが道を避ければいいでしょ!?」
 「いえ、ですからそれが出来ないからこういう状況になってしまっているんですよ」
 「それはアンタのせいでしょ!?」
 「自然の問題ですから、誰のせいというわけではないんですよ」
 「自然のせいにするの!?」

 なぜこの人は急に自然を庇ったのか本当に意味がわからないけど、ここでご近所さんが「どうしたどうした」と登場。すると女性は僕を指さして「この男が道を開けないんです」と声を荒げる。俺は武蔵坊弁慶か、と思いながらも「タイヤが雪に埋もれまして」と追って説明するとご近所さんは「あらら、んじゃスコップ持ってくるから」と踵を返し、僕も一安心。
 そして僕はご近所さんの協力を経て、無事にタイヤを救出し、駅に向かうことが出来ましたとさ。去り際に女性が「シネバイイノニ」とか言ってたけど、なんだろう。東京の言葉かな。きっと僕の知っている言葉に訳すと「貴方に福音を」的な意味になるんだろうな。ありがとう。死ねばいいのに。