曰くつき物件の夜

 「この部屋安いですね。木造だから?」
 「いえ、前住んでいた方が亡くなったんです」

 思わずテーブル越しの不動産屋の顔を見てしまった。不動産屋からすれば慣れたことなのかもしれないが、そんな軽い口調で言われると逆に不気味ささえ感じる。
 家賃一万二千円。ワンルームで木造だが、駅もコンビニも近く一人暮らしを始めるには悪くない。当時19歳だった僕は一人暮らしを始めるにあたって、なるべく安く、条件が悪すぎないものを探していたから、その部屋はとても魅力的に思えた。

 友人のツテで知り合ったその不動産屋は親しみやすい話し方をするし、身なりも小奇麗だったからか第一印象から「信頼出来そう」と思える人物だった。しかしそんな彼の口から「亡くなった」という言葉がキャッチボールでもするかのように軽く投げられて、僕は言葉を失った。しかし●●●ンショップの店内は誰一人こちらに目をやらず、他の社員達が黙々とデスクと向い合って仕事を進めている。

 「……人が死んだっていうのは」
 「自殺ですよ。こういうのも言わないといけないんですよね」

 苦笑気味に不動産屋は答える。

 「あー……だからこれ、写真が無いんですか」

 そう言って僕は目の前に開かれたバインダーのページを指さす。その先には不動産屋から紹介された一万二千円の部屋の条件が文章だけで書き綴られていた。写真は無く、本来写真があるべきであろうスペースには「この部屋の写真はございません」と書かれている。
 不動産屋が頭を掻いて、答える。

 「そうなんです。写っちゃうんですよね。僕は霊感とかそういうの無いですけど、変なのが写っちゃうんですよ。つまりはこれ、事故物件……いわゆる『曰くつき物件』というやつですね」
 「亡くなられたって、首吊りとか、ガス自殺とか?」
 「あまり詳しく言うのは前入居者のプライバシーになりますので言えません。どっちにしろ、行けばわかるんですけどね」

 行けばわかる、という言葉が僕の想像をくすぐり、様々な映像が脳裏によぎった。例えばフローリングに血痕の跡が残っていたり、まだガス臭さが抜けていなかったりといったイメージ。正直、それならば流石に住みたくはない。生活とは常に清潔と共にあるべきだ。でなければ穴蔵に住む獣と変わらない。

 「行けばわかるっていうのは……?」
 「行ってみます?」
 「行ってみます」

 僕は即答した。不動産屋は段取り良く車のキーとバインダーを抱えて車に乗り込み、僕もその後に続く。移動している車中で、不動産屋は相変わらず軽快な口調で僕に話しかけてきた。

 「角部屋で日当たりも良いし、悪くない物件なんですけどねー。ぎゃろさんってそういうの平気な方なんですか?」
 「怖くないと言えば嘘になります」
 「住めば都ですよ。きっと気に入ります」

 不動産屋がハンドルを切って大きな交差点を左折する。前に見える信号機が右へと流れ、左側から住宅街が姿を表した。閑静な住宅街だ。とてもじゃないが自殺を考える町とは思えない。やがて車は速度を落とし、アパートの前に泊まる。

 「あの部屋です」

 不動産屋が顎で指した先には、木で出来たドアに切子細工のような模様の入った窓と、ヒビ割れた壁が目立つアパートがあった。かなり古い建物に見える。助手席から見えるそのアパートは人が亡くなっていなくても十分不気味な雰囲気を醸し出しており、思わず息を飲む。
 近くの空き地に車を停めて、不動産屋と僕は先ほど紹介された部屋のドアの前に立つ。不動産屋はポケットから鍵を取り出しながら、僕にこう言った。

 「気分が悪くなったら言ってくださいね」
 「歯医者みたいなことを言いますね」
 「いや、本当に。こういう部屋を紹介すると泣き崩れる人とか立てなくなる人とか、体調を崩す人がいたりするんで」

 そういって、不動産屋は鍵穴に鍵を差し、ドアを開けた。むわぁっと、湿った空気が鼻をつく。匂いは無い。無臭の蒸気が立ち込めているようで、異常な湿度だった。心なしか、空気が重い。
 不動産屋が「ここが玄関です」と当たり前な説明をしていたのを無視して、僕は部屋へと上がる。持参していたスリッパに履き替えて、部屋を見渡した。狭いキッチンと、風呂場がある。風呂場とトイレは同じ所にあり、台所とその反対側の壁に換気扇がある。床はフローリング。変なシミや匂いは無く、思っていたより綺麗な部屋だ。これならば文句はない。
 しかし、一つだけ不自然な場所があった。部屋自体は極めて普通なのだけど、その部分だけ異様な雰囲気を醸し出している。

 ドアだ。ワンルームなのでノブがついたドアは僕が入った入り口の場所(玄関と部屋の間を隔てているドア)の一つにしか無かったが、このドアに違和感を感じる。部屋に入った時点で既に開いていた状態だったから触れもしなかったが、このドアは構造上というか、他のドアとは違う場所がある。なんだろう。僕はそのドアを見つめて、間違い探しを始めた。

 わかった。ドアノブが低い。ドアノブの位置が異常に低く、実際に使用しないとわからないが、子供の高さにちょうどいいぐらいの高さにドアノブがある。よく見れば、このドアの色だけツヤがあり、床や壁に比べると新しい。ドアノブに軽く触れてみるも、グラつきが全くない。まるで最近作ったようなドアだ。

 なるほど、と僕は点と点が繋がった。恐らくだが、前の入居者は首吊り自殺をしたのだ。このドアのドアノブを使って。それでドアノブが壊れたからドアを建て替えた。しかしそれならば修理するだけだから、新しくドアノブの高さを低く設計する必要は無かったのではないか、と思ったが、その理由に気付いた瞬間、ぞっとした。


 それは、一人じゃないからだ。この部屋で亡くなった人間は、恐らく二人以上いる。それもここが曰くつき物件という扱いを受けてからこの部屋に住み、このドアを使って自殺した人間が複数名いる。自殺防止のために、ドアノブの位置が低くなっているのだ。紐や布を用いて輪をつくり、ドアノブにかけて首を通しても尻がつく程度の高さにドアノブの位置が下げられているのは、そういう理由だったのだ。

 僕がドアノブを凝視していると、不動産屋が「あー、気づきますよね。不自然ですよね」と話し始める。「そうなんですよ。多分ご想像の通りです。まぁ僕は案内していて変なものを見たことはありませんけどね」

 「この部屋で何人亡くなられたんですか?」
 「三人ですね」
 「僕を含めると四人になりますか」
 「含めないでくださいよ」

 不動産屋がそう言って笑うのを横目に、僕は決断した。

 「この部屋、住みます。すぐにでも」

 こうして僕の、生まれて初めての一人暮らしが始まったのだった。それも曰くつき物件。厳密に言えば一人暮らしじゃないのかもしれないが、この部屋に住んでいた頃は、本当に色々な事があったため、忘れることが出来ない。

 その一週間後、様々な手続きを終えてようやく僕はその部屋に最低限の荷物を運び終えた。レンタカーで軽トラを借り、布団やテレビ、冷蔵庫などを運ぶ。生活必需品は近所のコンビニで買い、いよいよ曰くつき物件による生活が始まろうとしていた。
 最初の夜。7時頃になって、僕は友達五人を家に呼んだ。そのアパートは自分以外誰も住んでいなかった為、「一人暮らし記念だー!」と酒を飲み交わすことにしたのである。

 出前で頼んだ寿司を食らっては酒を飲み、この部屋が曰くつき物件であることを伝えて友達を怯えさせたりと、とても楽しい夜を過ごした。酔いも回り、気づけば終電も無い時間になったため友達は全員僕の部屋に泊まることになったのだ。

 狭かった上に布団が足りなかったため全員が雑魚寝になったが、寝っ転がる場所について話し合っていると次第に揉め始めた。やはり、全員が例のドアノブの近くに眠りたくないと言ったのである。

 「あそこなんか嫌な感じしねぇ?」 
 「する。なんか怖いわ」
 「ぎゃろの話を聞いたからじゃねぇの?」
 「じゃあお前あそこで寝ろよ」
 「嫌だよ。四人目はぎゃろだろ」
 「なんで俺なんだよ」

 などと話し合っていると、やはり僕がドアノブ付近で寝ることになった。誰かが身の危険を感じたら「命を燃やせぇ!!」と叫び、回りの人がそれを聞いたら跳ね起きて「生きる!!」と叫び返すという謎のルールが適用され、全員が横になって目を閉じ、安らかに眠った。




 一時間後、友達の一人が起き上がる。

 「ちょっとみんな起きて」

 全員が寝ぼけ眼で体を起こし、「なに?」「トイレ?」「先生来た?」「修学旅行かよ」などと目をこすり、起き上がった友達を見つめる。彼の表情は青ざめており、少し震えていた。

 「マジで悪い冗談とかやめようや」

 思わず、彼を除く全員が「は?」と声を揃える。そして、楽しかったはずの部屋の空気がガラッと変わり、恐怖が皮膚を刺すような雰囲気になった。友達は座り込み、ゆっくりとしゃべり始める。

 「さっき俺の手を握ったの、誰?」

 全員が顔を見合わせる。「お前?」「違う」などと指をさしあったりして確認したが、誰もそんなことをしていないというのだ。次第に、全員の顔が青ざめていく。「マジで?」「ヤバイってこれ」「どうする」「マジでヤバイだろこれは」と眠気も吹き飛んだ友人たちが混乱し始めた。

 「帰る?」
 「いま外出るのも何か怖くね?」
 「とりあえず電気は点けっぱなしでいようや」
 「もういっそずっと起きてるか?」
 「……命を燃やせぇぇぇえ!!!」

 「「「生きるッッ!!!」」」

 少し恐怖心が吹き飛んだ。しかし、手を握られたという友人の顔色は暗いままだ。彼が「ちょっと誰か俺と手を繋いで寝ようや」と不安げに提案し、結局全員がラッコのように手を繋いで寝ることになった。荒れた土地に線路を敷くように、半ば無理やりな繋ぎ方で全員は横になって、電気は点けたまま少しだけ眠ることにした。

 「お前手汗すげぇな」
 「そりゃあ俺の体の半分は手汗だから」
 「やべぇじゃんお前」
 「もう寝ようやぁ。眠いわ」
 「ちょっと待って。まずコイツの手汗の凄まじさについて答え出してから寝ようや」
 「うるさい」
 「汗と涙は同じ成分らしいから、コイツは泣き上戸ならぬ汗上戸ってことになるな」
 「ちょっと何言ってるかわからないですね」
 「……ちょっと待て」

 今度は僕が起き上がる。

 「どうした、ぎゃろ」






 「……今、『うるさい』って言ったの誰?」

 また、部屋に嫌な沈黙が流れる。とりあえず全員が起き上がり、言葉に詰まっていた。先ほど聞こえた声は明らかに誰よりも太く低い声で、ここにいる誰かの声ではない。

 「もうさ、戦わね?」

 友達の一人が提案する。いやそれは流石にどうだろうと僕が声を出そうとした途端、僕以外の全員が「いいね!」「塩無いのか塩!!」と盛り上がり始めた。お前ら勝手な事言ってんじゃねぇ、俺は今日からここにずっと住むことになるんだぞといった旨の事を何度も言ったが、彼らは断固として聞く耳を持たない。
 それがもし、僕ら以外の誰かの逆鱗に触れてしまったら、直接被害を受けるのは僕ではないか、と途方に暮れてしまった。僕以外の全員がキッチン棚に向かい、塩を取り出そうとする。さっき手を握られた彼の顔にも生気が宿り、キッチン棚を勢い良く開けた。



 その瞬間、棚の中の暗闇に、満面の笑みの女性の顔が。

 



 全員がそれを見たらしく、言葉を失う。顔は何をつぶやいて(聞き取れなかった)、静かに棚の奥に消えていった。全員が顔を見合わせて、棚を閉めた。
 それから友達が僕の部屋に来ることは無い。結果的に僕はその部屋に住み始めたけど、今回のような出来事が数えきれないほどあったため、また機会があれば書こうと思う。